近代建築とは~近代建築の歴史(その1)

グラバー邸
グラバー邸

皆さん、初めまして。北夙川不可止です。本職は短歌を詠む人=歌人なのですが、『東西名品 昭和モダン建築案内』(洋泉社)など建築に関する著書があり、NPO法人J-heritageの顧問を務めるなど、もう30年以上、近代建築に関わり続けています。そこで『ヘリタビ』スタートに当たり、近代建築について少しお話させていただくことになりました。

大上段に振りかぶって「近代とは何ぞや」と言い出すと、哲学的な話になってしまって大変です。また英語のmodernを、日本語では「近代」「現代」に訳し分けます。それに日本語でも「近代」の意味は複雑で、「近代的な都市」というと極めて新しい、未来的なものを指しますが、「近代建築」というと「現代より以前」ということになります。

つまり建築史における「近代」とは、概ね幕末から第二次世界大戦以前まで、19世紀後半から20世紀前半までの時代を指し、従って「近代建築」というとその時代に建てられた建築物、という意味になるのです。それに対して戦後の建物は「現代建築」になります。

まずは幕末、クロフネがやってきて、日本は開国することになります。西洋から様々な文物や技術が流入します。その中には建築もありました。明治に入り、その流れは加速します。

建築では、まずは長崎や神戸など開港場の外国人居留地に、日本に住む外国人のための住宅が建てられます。それはコロニアル様式で、熱帯の植民地で西洋人が快適に暮らせるように発達したスタイルでした。主に木造下見板張りで、煖炉などを備えるものの天井は網代になっていたりするなど、極めて開放的な造りです。つまり、温帯で冬には氷が張り雪も降る日本の風土にはあまり適していないものでした。なので、ベランダにガラス窓を入れてサンルームにするなど、日本の冬を快適に過ごせるよう工夫され、改造されていくことが多かったのです。それらは日本人から「異人館」と呼ばれるようになりました。

時は文明開化、日本人の「新しもの好き」に火がついた時代です。異人館を見聞した日本人の中に、「西洋館に住みたい」「西洋式の学校を建てたい」などと思う人が現れます。彼らは地元の大工の棟梁に建設を依頼しますが、頼まれた方は西洋館など建てるどころか見たこともない人ばかりです。まずは横浜や神戸などの居留地を訪れ、スケッチしたり、時には異人館の施主や大工に話を聞いたりして、地元に帰ります。

そしてその成果を基に、日本在来の技術で、西洋館を建てるのです。大いに楽しんで腕を振るったと思われる作品が、今も日本各地に残っています。有名なところでは、信州松本の開智学校、京都の大谷大学大宮キャンパスなどが挙げられるでしょう。民間における西洋建築の受容の始まりです。

大阪造幣局
大阪造幣局

しかし明治政府の建物は、もっと本格的なものである必要がありました。そこで登場するのが「お雇い外国人」です。最初は専門家ではなく、あらゆる技術を器用にこなす、マルチな技術者が活躍します。うってつけなことに、その時代、アジアやアフリカの植民地を旅して、その先々の需要を満たす、「アドヴェンチャー・エンジニア」と呼ばれる技術者が大勢世界を股にかけていたのです。

建築の世界では、トーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters)が有名です。まず大阪に近代国家の象徴ともいうべき造幣局を建て、東京には銀座煉瓦街を築きました。その後は上海に渡って自来水(水道)施設を完成させ、更にはコロラドで銀山を掘り当てたと言いますから、まさに冒険家と呼ぶにふさわしい人物だったようです。

しかし、彼は便利屋的な技術者ですから、有能ではあっても建築家ではありません。本格的建築家は、次に登場するジョサイア・コンドルから始まる、ということになります。
(つづく)

 

<執筆者プロフィール>

北夙川不可止

1980年代より近代建築と都市の歴史的景観の保存と活用に関わり続け、現在は神戸・旧居留地、チャータードビルヂング内の「ギャラリー5」と、大阪の都心にある登録有形文化財建築である船場ビルディングの「サロン・ドゥ・螺」を拠点に、歌人、コラムニスト、アート・ディレクター、バロック音楽を専門とする音楽プロデューサーなどとして活動している。歌人としては元々はアララギ系出身だが、現在は「玲瓏」に所属しつつ、BL短歌「共有結晶」、にも参加。猫と紅茶と美少年が大好きで、片眼鏡と懐中時計がトレードマーク。